神の「貧しさ」を生きる   〜貧しい人々への優先的課題〜  ①

 今年(2014年度)の京都教区の年頭司教書簡(教区の年間課題)は、貧しさについて学び、祈り、奉仕を実行していこうと傘下の小教区で取り組んでおります。
これは昨年選出された、フランシスコ教皇が言われたテーマに基づいています。
 3月5日(灰の水曜日)から、四旬節を迎えるにあたり、教皇様が、「主は貧しくなられた。それは、主の貧しさによってあなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8・9参照)をテーマにメッセージを発せられました。
 司教書簡でも述べられていますが、現代のカトリック教会にとって、重要な課題でもあります。ちなみに、第2バチカン公会議公文書(教会憲章8項)では、このように記されています。

 キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成したように、教会も救いの成果を人々に伝えるために同じ道を歩くよう招かれている。
 教会も、人間的弱さに苦しむすべての人を愛をもって包み、さらに貧しい人や苦しむ人のうちに、貧しく苦しんだ創立者の姿を認め、かれらの欠乏を和らげるよう務め、かれらのうちにキリストに仕えようと心がける。(抜粋)

 現代のカトリック教会が、社会に対して自らの福音宣教にかかっています。

そこで、「貧しさ」とは?

司教様は、貧しさの概念を、次のように教えておられます。
「物質的」なもの・「精神的」なもの。
 さらに、それぞれ、「否定的」なもの・「肯定的」なものに分類します。
 
 ① 否定的な「物質的貧しさ」とは、
    人間性を奪うもので、根絶すべき貧困
 ② 肯定的な「物質的貧しさ」とは、
    信仰によってあえて自発的に求めていく福音的な貧しさ
 ③ 否定的な「精神的貧しさ」とは、人が富みに溺れることで、人間としての精神的・霊的価   値をもたない状態
 ④ 肯定的な「精神的貧しさ」とは、人が神への信頼によって、柔和で謙遜な状態

  今年は、「物質的な貧しさ」について学びます。(つづく)


 

ルカによる福音 2・1-14

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムと言うダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには、栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 神の子と呼ばれるキリスト。
 人の過ちによって、人は神から離れた。
 しかし、神は人を憐れんで救いの手を差し伸べられた。イエス・キリストの到来である。
 この喜びを知った人たち、それは羊飼いたちであった。
 イエス・キリストを信じることによって、大きく人生が変えられる。
 この世の素晴らしさ、神がくださる無限の愛を自分の肌で感じ。
 この喜びを、多くの人に分かち合う。

 聖パウロは言う。
  「いつも喜んでいなさい。」
 
  

ルカによる福音 Ⅰ・26-38

[そのとき、]天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという
人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった・天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

目に見えない神を信じることは、大変難しいことかも知れない。
 しかし、この宇宙・地球のすばらしさを見れば、自然と創造主に気付くことでしょう。
 この創造主を、人は神と呼ぶ。
 神は、この世界を造られ、あらゆる自然界・動物たち、すべてを見て喜ばれた。
 特に、人間には自由意思と言う最高の宝物を与えられた。
 人は、最高の自由意思があるがゆえに神から離れてしまった。旧約聖書(創世記)
 神は、この人間を見捨てようとはせず、救い主を遣わされた。
 この救い主こそが、イエス・キリスト、その者である。
 救い主は、おとめマリアと言う一人の女性から生まれることになった。
 マリアは、天使に言われるままに、神からの言葉を信じた。
 私たちも、神からのメッセージ。自然からのメッセージに耳をすませて聞くことが大切ではないか。
 地球温暖化原子力放射能・など。また、戦争や難病、食糧不足など。
 すべての人が、人間らしく生きられるよう、私たちは努力していかなければなりません。
 神は、宇宙・地球・動物そして人間すべてを、今も愛しておられます。

 

ヨハネによる福音 1.6−8、19−28

 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの予言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 12月25日は、イエス・キリストの誕生日。この日は、キリスト教徒のみならず、世界中で祝われている。
ある人は家庭で家族と一緒に、またある人は親しい友人と共に、ワインを飲みながら、ケーキを食べ、平和な時間を過ごしている。
子供たちは、サンタクロースの贈り物を楽しみに待っている。
 しかし、世の中には、クリスマスを祝いたくとも祝えない人がいることも現実である。
食べ物がなく、明日の生命が分からない子供たち。戦争によって、身の危険を余儀なくされている人。
地震・災害にあって身内・家財・職業等を失った人々。
 12月になると、歳末助け合い運動が行われているが、私たちは日ごろ彼らに心を留めなければならない。
キリストは、最も小さき者(世の中から見放された人たち)にしたことは、私にしたことだ。
      最も小さき者にしなかったことは、私にしなかったこと。
 私たちがいま一度、自分の生活を見直して、彼らに目を向けられる社会を造り上げていかなければならない。
ヨハネが、「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫んだ。主の道こそ、神が望まれる道。
現代社会は、荒れ野と言ってもおかしくない世界。
 ほんとの意味のクリスマスを、味わって見ようではありませんか。

マルコによる福音

 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、
あなたがたには分からないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方かあなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 カトリック社会では、救い主キリストの再臨を待ち望む期間を待降節と呼んでいます。
12月25日は、キリストのご降誕(誕生日)と言われています。
また聖書によると、世の終わりに再び来られる。(主の再臨)
その時、全ての人を裁かれる。
キリストは、最も小さな者にしたことは、私にしたことだ。
      最も小さな者にしなかったことは、私にしなかったことだ。
弱者の中にいつも、キリストがおられる。
社会では、障害者や貧困者などの福祉が一番先に切り捨てられる。そんな時代、国家、地方自治の行政政策である。
全ての人が、憲法で保障されている、人間として尊重される世の中になるように。
私達は、働きかけねばならない。
キリスト(弱い立場の人)といつ出会っても、愛と奉仕が出来るように。
心の準備をしたいと思う。

旧約聖書 「シラ書」の朗読

 憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。
 復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。
 隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
 人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
 自分と同じ人間に憐みをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
 弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を
 赦すことができようか。自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
 滅びゆく定と死とを思い、掟を守れ。
 掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
 いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。


 カトリック教会では、毎週ミサ(礼拝)が行われています。その中で主日(日曜日)のミサには、
3つの聖書が読まれます。

第1朗読は旧約聖書・第2朗読は新約聖書使徒たちの宣教活動)・
第3朗読は、イエスの言動を語った福音書

今日の個所は、シラ書。別名 集会の書とも言われています。この書は、紀元前2世紀に書かれ、
カトリックのみ聖典とされております。この著者ベン・シラは律法の専門家として当時のユダヤ人の
信仰生活にとって最も必要な教訓だったのではないでしょうか。

復讐するな、隣人から受けた不正を赦せ、敵意をすてよ。
これは現代の私たちにも、当てはまることではないでしょうか。
新聞・テレビのニュースを見ると、忌まわしい事件が多すぎます。
毎日、どこかで人の生命が失われております。しかも他人の手によって。

キリストは、愛することを教えられました。
キリストは、人を赦すことも教えられました。

確かに人間は、心に受けた傷はなかなか消えるものではありません。
辛いです。苦しいです。悔しいです。

しかし、天の父(神)は、私たち一人一人を見つめています。
愛しておられます。

私たち、そんな弱い人間同志が集い、祈り、語り合いながら心を開いていける共同体。
それが、キリストの教会の姿です。

一度、足を運んでみては如何でしょうか。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕大勢の群衆が、一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。


 キリスト教会を見ると、カトリック(おおやけ)、プロテスタント、また建物の大・小を問わず必ず十字架が見られる。それは、キリストがすべての人の罪の許しを願うために、十字架の死を遂げた証しだと信じているからです。
 十字架の死を遂げたキリストは、3日目に復活し、後に天にあげられ(昇天)、世の終わりに再びこの世に来られ(再臨)、正しい人と、そうでない人とを裁かれる(公審判)と、聖書の中に書かれております。
 教会に行って、神父さん(カトリック)や牧師さん(プロテスタント)からキリストについての話し(教理)を聞いて心を動かされ、洗礼を受けるのです。こうして、教会のメンバーとなるのです。
 洗礼とは、生まれ変わることです。今まで、自分中心に生きていた生活を、キリストの教え、つまり隣人愛のある生き方に生まれ変わることです。
キリスト教は、他の宗教とは少し違います。と言うのは普通、宮詣りをする時などよく分かるように自分、家族や身近な人の幸せになるように祈ることが多いのです。勿論、キリスト教も同じように祈りますが。
 ところがキリスト教の場合は、キリストの教え(隣人愛)を守り、正しい事を行い、それを、日々の生活の中で受け入れ、且つ周囲の人に呼びかけて共に歩んで行こうとする集団(共同体)であります。これを、福音宣教と言っております。
 聖人と呼ばれた昔の修道者・アッシジのフランシスコは言っています。人々に。愛されるより、愛することを。理解されることより、理解することを。赦されることより、赦すことを。など。
 このような生活をしていれば、確かに苦しみ・悩みがついてきます。これらが自分に与えられた十字架として受け入れて、感謝の内に歩むことが出来るよう祈り、共同体の中で互いに分かち合い協力し合う場。それが、教会なのです。
 日曜日には、礼拝(カトリックでは、ミサ)があり、祈りを通して一週間の活動のエネルギーをいただきます。
 もし機会があれば、教会を覗いて見てはどうでしょうか。