ルカによる福音

 〔そのとき、〕大勢の群衆が、一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。


 キリスト教会を見ると、カトリック(おおやけ)、プロテスタント、また建物の大・小を問わず必ず十字架が見られる。それは、キリストがすべての人の罪の許しを願うために、十字架の死を遂げた証しだと信じているからです。
 十字架の死を遂げたキリストは、3日目に復活し、後に天にあげられ(昇天)、世の終わりに再びこの世に来られ(再臨)、正しい人と、そうでない人とを裁かれる(公審判)と、聖書の中に書かれております。
 教会に行って、神父さん(カトリック)や牧師さん(プロテスタント)からキリストについての話し(教理)を聞いて心を動かされ、洗礼を受けるのです。こうして、教会のメンバーとなるのです。
 洗礼とは、生まれ変わることです。今まで、自分中心に生きていた生活を、キリストの教え、つまり隣人愛のある生き方に生まれ変わることです。
キリスト教は、他の宗教とは少し違います。と言うのは普通、宮詣りをする時などよく分かるように自分、家族や身近な人の幸せになるように祈ることが多いのです。勿論、キリスト教も同じように祈りますが。
 ところがキリスト教の場合は、キリストの教え(隣人愛)を守り、正しい事を行い、それを、日々の生活の中で受け入れ、且つ周囲の人に呼びかけて共に歩んで行こうとする集団(共同体)であります。これを、福音宣教と言っております。
 聖人と呼ばれた昔の修道者・アッシジのフランシスコは言っています。人々に。愛されるより、愛することを。理解されることより、理解することを。赦されることより、赦すことを。など。
 このような生活をしていれば、確かに苦しみ・悩みがついてきます。これらが自分に与えられた十字架として受け入れて、感謝の内に歩むことが出来るよう祈り、共同体の中で互いに分かち合い協力し合う場。それが、教会なのです。
 日曜日には、礼拝(カトリックでは、ミサ)があり、祈りを通して一週間の活動のエネルギーをいただきます。
 もし機会があれば、教会を覗いて見てはどうでしょうか。